■ジャズストリートとは

新潟のまちを明るく元気に!そして音楽溢れる楽しいまちにしたい!

そんな願いからはじまった音楽イベントが新潟JAZZストリートです。

地元のお店やコンサート施設などがライブ会場となり、 地元ミュージシャンや遠方からのゲスト・ミュージシャンが集まり、 様々なスタイルのJAZZと、その周辺の音楽の演奏を繰り広げます。

お客さんはフリーパスチケットで イベントの全会場を昼夜自由に出入りできます。

この一日、新潟の街は音楽のテーマパークになり、 大人も子供も一緒になって”音楽の街”を楽しみます。

新潟のJAZZストリートは1月と7月の年2回開催の予定です。


新潟市とJAZZの深い関係

新潟はジャズの故郷ミシシッピー川のような大河信濃川が悠然と流れている港町です。海を越えて運ばれてくる舶来の物・人をおおらかに受け入れる気質と好奇心に富んだ気風があったようです。

昔からなぜかジャズが盛んで、演奏者も愛好家もジャズ関係の店舗も多い土地柄です。その大きな理由として第2次世界大戦後の進駐軍とアメリカ文化センターの存在があります。戦勝国の陽気なヤンキーがジャズとともに上陸したのです。

新潟市にも進駐軍が駐留、アメリカ文化センターでは日夜アメリカ文化の紹介として盛んにジャズのコンサートや放送が行われたそうです。

進駐軍クラブでは、日本人ミュージシャンが演奏に招聘され、兵役中の米国ミュージシャンや慰問軍の演奏を聴く機会や、セッションのチャンスもあったようです。

また、港町新潟はキャバレー・クラブ等が多く、たくさんのバンドが活躍していました。新潟へ行けばジャズが演奏できる。との噂があり、多くのミュージシャンが仕事で新潟に来ました。彼らは仕事としての演奏の他、自分たちのやりたい音楽をやれる場を求めていました。営業時間外の店舗でのセッションも盛んだったようです。

ジャズの公演も地方都市としては多く、新潟市名誉市民のデューク・エリントンと彼の楽団を始めチャーリー・ミンガス、ビル・エバンス、マイルス・デイビス、セシル・テイラー、マッコイ・タイナー、キース・ジャレット、ソニー・ロリンズ等、ほとんどのジャズ・ジャイアント達が来港しています。

現在は、ジャズ喫茶やライブハウス、ホテル、レストラン、ホールなどでライブが盛んに催される他、2003年1月より「新潟ジャズストリート」が毎年1月と7月の年2回開催されています。街中にジャズが響き渡るこの日、新潟は「ジャズの街」に様変わりします。


新潟JAZZストリート 「デュークエリントンメモリアル」の由来

デューク・エリントン(1899-1974)は、50年の長きに渡って、自らの楽団を率いて演奏活動を行い、数多くの作・編曲を創作し、ニューヨークを拠点に度重なる海外演奏や数百種類を数えるレコードを通じて世界的な名声を得た有名なバンドリーダーです。

彼の代表作である「A列車で行こう」「キャラバン」「サテンドール」「スィングしなけりゃ意味ないね」などの曲はジャズをあまり知らない人でもどこかで聴いたことがあるはずです。

実は、この有名なジャズの巨人であるデューク・エリントンは、新潟市の国際親善名誉市民なのです。

昭和39年6月16日に発生した新潟地震の直後に来日し、楽団を率いて日本公演中だったエリントンは、新潟の惨状を聞き、次に予定されていたハワイ公演をキャンセルし、同年7月8日に東京・厚生年金ホールで「新潟地震救済資金募集・特別コンサート」を開催、収益金をすべて新潟市に贈りました。

新潟市は感謝の意を込めて、2年後の昭和41年5月、エリントンが再来日した際に「国際親善名誉市民」の称号を贈りました。エリントンは
「これまで音楽家として頂いた賞は随分ありますが、名誉市民というのは初めて」とうれしそうだったそうです。
当時の渡辺市長が「3度目の来日の際は是非新潟にも来て下さい」と言うと「是非おじゃましたい」と約束したそうです。

それから4年後、3度目の来日で念願の新潟でのコンサートが実現しました。

さらに4年後、ジャズの巨星は75歳で天国に召されました。

デューク・エリントンの温かい思い出が、新潟のジャズを、新潟ジャズストリートを、どこかで支えているような気がします。

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